上野ライフナビゲーター

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上野公園は国営?それとも都営?

みなさんこんにちは。突然ですが問題です。

上野公園を運営しているのは国でしょうか?それとも東京都でしょうか?

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正解は東京都です。

僕も台東区に住むまでは、よく知りませんでした。

上野公園って言えばすごく有名で広いし国営っぽいよなぁ、他の広い公園(立川の昭和記念公園等)は国営だしなぁ、と思ってました。

また、正式名称が上野恩賜公園なのも国の管轄のようなイメージに拍車をかけてました。

(「恩賜」は天皇が贈答することです。「恩賜の煙草をいただきて~」っていう軍歌が昔あったみたいです。)

「上野公園」でGoogle検索すると、東京都公園協会のページが一番上に出て来て「あれ、東京都が管理しているのか」とちょっと驚いたことを覚えてます。

 

上野公園の歴史と「恩賜」公園の由来

映画監督の森達也さん(オウム真理教ドキュメンタリー映画「A」が有名です)が、新潮社から「東京番外地」という本を出しています。森さんと新潮社の編集者が東京のメジャーな場所やちょっとディープな所に行ってみるという本です。

その中に上野公園も出てくるのですが、江戸時代以降の上野公園の歴史について勉強になる記載がありましたのでかいつまんで紹介します。

  • 江戸時代の初期、上野の山には外様大名藤堂高虎の屋敷がありました。
  • その場所に、三代将軍徳川家光の時代に寛永寺が設立されます。これは、上野公園のあたりが江戸城からみて丑寅(北東)の方角にあり、この方角は鬼門にあたるためです。寛永寺は芝の増上寺とともに徳川幕府菩提寺になり繁栄します。
  • 時は流れて慶応4年(明治元年)、徳川慶喜の新政府への恭順に反発する旧幕臣彰義隊という部隊を結成し、寛永寺を拠点として反政府活動をします。最終的には、官軍が彰義隊討伐に乗り出し、彰義隊は壊滅しました(上野戦争)。
  • この戦いでは、寛永寺の大部分が焼失し、上野の山は焼け野原になりました。上野公園一帯は上野戦争後に明治政府に接収され、病院を作る計画などもあったようのなですが、結局、日本最初の公園として明治6年に一般公開されました。
  • その後の明治16年に上野公園は御料地(皇室の所有地)になりましたが、大正13年に当時の皇太子(昭和天皇)の婚儀の記念に、東京府に下賜(払い下げ)されました。「恩賜」はここから来ています。

つまり、幕府→政府(→皇室)→東京都と持ち主が変わって来たんですね。

ちなみに、上野戦争寛永寺の大部分が燃えてしまったのですが、上の写真の旧寛永寺五重塔は燃えずに残りました。

そう思うと、ちょっと見る目が変わるかもしれません。